朝メシはセブンのおにぎりで済ました体たらく。旅も3日目になると食に対し雑になってくる。
さて、今日の旅は、嵐山から。
竹林を抜け天龍寺に入る。紅葉は確かに美しいが、人は何も持って美しいと判断するのかという哲学的難題の答えを探しながら歩く。
そもそも、人は美しいのか醜いのかを判断する合理性はあるのか?
人は何を持って美味いか不味いかを判断しているのかという問いに置き換える。
多くの子供は、甘いものを好む。それは、成長に必要なエネルギーを欲しがっているからだ。
考え途中ですが、昼メシは松屋。今日は本当に食に対して雑になっている。
多くの子供は、野菜より肉を好む。それも、成長に必要なエネルギーを欲しがっているからだ。
そう言えば、昔の寿司のシャリは、塩っぱかった。肉体労働が多く、汗で失ったミネラルを補給したいから塩っぱいシャリが好まれた。一方、現代のシャリは、甘い味付けが主流。脳を使う仕事が多くなり、失った糖分を補給したいから甘いシャリが好まれる様になった。
三島由紀夫の代表作「金閣寺」のあらすじを思い出す。金閣寺の美しさに取り憑かれた学僧が、やがて金閣寺を燃やすという破滅までの道のりを綴っている。
そうだ。美味いものとは、命を維持するために欲しがっている要素だけではない。痛風の危険も顧みず、白子、鮟肝を美味いと感じジャブジャブ喰ってしまうのは、破滅願望から来る性なのか?
哲学の道を歩きながらもう少し考えたくて、金閣寺からタクシーで移動する。
乗ったタクシーは、偶然にも京都で有名な矢沢永吉タクシー。関西弁バリバリの運転手さんは、心から人生を楽しんでいる様で羨ましかった。
美味いモノの本質とは、
・命を維持する要素
・命を壊す要素
北京料理の老舗、東華菜館で美味いものを喰いながらもう少し考えよう。15時半という中途半端な時間にも営業しているのが嬉しい。
クラゲの酢の物。
良い素材を使っているのは分かるけど感動しない味。無難に美味い。
麻婆豆腐。
辛味はあるが痺れが足りない。感動まではしないが文句無く美味い。
紹興酒へ移行。
八宝菜。
ここまで来て、ガツンと来る味付けをしないのが北京料理の本質と悟った。
蒸し餃子。
餃子は焼いた方が美味いけど、蒸し餃子の方が安かったので頼んでしまった体たらく。無難に美味い。
炒飯。
悪くはないがセブンイレブンの炒飯の方が好み。
感動する味ではなかったので、哲学的難題の答えは見つからず、年季の入った天井を仰ぎ、
〆て4人で、1.6万円。歴史的建物に入れたのは大満足。